どういえばいいのか、いえないな!

その瞬間に、ここで見たことや体験したことをみんな忘れてしまうのよ

閃光ばなしを観た

舞台『閃光ばなし』を観た。

 

東京公演も残すところが少なくなるとTwitter上のネタバレ配慮もゆるやかになり、

個人的最終観劇を終えたことで放出される熱、

カウントダウンで残りの公演に馳せる熱、

観る側からも演る側からも熱、熱、熱がTLに押しよせて、否が応にも大千秋楽への期待が高まっていたその最高潮の朝、

 

お知らせは突然公式から流れてきた。

 

 

"「…公演関係者に新型コロナウィルスの陽性反応」がでた。

「最後まで実施の可能性を検討」したが「止むを得ず公演を中止」する…”

 

 

 

思いもかけないこの舞台の結びは、わたしにとって強烈なスパークだった。

ふわふわと漂っていた夢の中から急に現実に引き戻されたようでいて、新しく目覚めたその現実もまた夢の中のような奇妙な感覚だった。

 

もちろんすでに観劇にむかっていた方や演者の方、関係者の方々、なによりやすだくんのことを心配したけれど、舞台『閃光ばなし』を思うとそれでいいのかもしれないという考えが突如まいおりてきてわたしの横っ面をはたいた。

 

 

 

 

だってこの物語には終わりがないから。

 

 

 

大千秋楽をみんなで迎えて、全力でやりきって、満場の拍手につつまれて、感動を分け合って、ねぎらって讃えて大団円のフィナーレで、はいこれでお終いだよ昭和三部作の完結だよって幕をとじられることをずっとずっと祈っていたし、そうであってほしかった思いは今も根強くあるけれど、

尻切れトンボみたいに突然スッパリと立ち消えて、行き場のない思いや感情だけがゆらめいて、放りだされて、ただこの「もう終わっている」という「今」だけがある。

連続する「今」があることによってそれは決して完結しない。

時を替え場所を変え今を生き続ける、

『閃光ばなし』ってまさしくそんな舞台だったような気がしてきて。

 

 

是政も政子も、どんづまりで生きていたみんなが

そこかもしれないし、そこではないかもしれないどこかで

この先もああだこうだ言いながら生きたり死んだりして世界は続いていく。

 

 

その切れ目ない「今」の連続のなかで是政と政子がゼロから離れようとして巻き起こしたエネルギーの放電、その瞬間にだけ見えた物語。

 

閃光の名のとおり、瞬間的に明るくきらめいた、刹那のお話し。

とはいえその刹那の中には「生きるということのあらゆるもどかしさ」がギュギュギュッとつまっていて、ただただ美しいだけの閃光じゃない。

 

ピカッと光ったそのひかりのなかに見えるものこそ、あなたの心の奥底に潜んでいるものですよ的な…

 

…ホラーか。

 

…ぜんぜんホラーではないです。

 

 

 

ニコッ。

 

 

 

「そりゃないことだらけの毎日」が現実にはみだしてきて、

舞台が実は私たちと地続きで、

私たちが生きていることであのどん詰まりの住人達も生きる。

終わりじゃない。

 

 

今回の最終公演の中止はそういう果てしない余韻を残した気がしているんです。

 

 

 

 

閃光、瞬間、刹那とさっきから並びたてているけれども、上演時間3時間はなんともまぁ濃密なたっぷりとした時間でして。

なんと言っても生気の吹き溜まりみたいなあのどん詰まりの町。

生気が吹き溜まるとはなんとも奇妙だけれど、

未来への展望がないままの生活を煮しめた塩っ辛いやるせなさが染み付きながらも

たくましくしぶとく日々を生き抜いている人々がやっぱりこの物語の屋台骨だと思うんです。

 

自分の生活が立ち行けばそれで満足で、理不尽なことを抜本的に変革しようとは思っていない。(巨悪を暴きたいわけじゃない!ってセリフが実に象徴的でした。)

目に見える範囲に敵をつくったり味方にしたり、手の届く範囲で甘噛みしあいながら憂さを晴らすことになんの疑問もない。

 

そんな人々の中にあって、自分の手の届く範囲から逸脱するビジョンを持っているのが是政で、その是政にパワーを与えるのが政子でした。

ふたりは兄妹、兄と妹。

 

最愛の政子のために持ち前の行動力で、すこしでも生活を良くしようとどんづまりの住人を巻き込みながら奮闘する是政。

 

舞台後半で「俺が[みんな]っていうときは[政子と俺]のことだ」って是政の口から語らされてますけど、人格者と持ち上げられてくすぐったそうに照れているわりには政子を守るためにペンキ屋を警察につきだしたり、出来上がった橋をバイクで引っ張って壊そうとしたり、是政はどん詰まりの住人たちに寄り添ったりはまったくしないんですよ。

 

川に橋をかけようとするのも、足漕ぎボートで川を渡ろうとするのも、自分の結婚式をすっぽかして電柱を立てたのも、バイクタクシーを始めるのもすべて「政子と俺」のため…

 

自分を中心にまきおこるエネルギーの渦のなかに、住人が引き込まれたりはじき飛ばされたりすることはなんとも思っていない。

そんな意味でいえば一番強烈にはじき飛ばされた由乃さんですら、新しい目的のためには渦の中にグイグイと引き込もうとするのけっこうえげつなかったな。

 

「ズルいところも含めて正直なあなたが好きだった」って由乃さんは言ってるから、そういう是政が自分のことを本当に大切に思ってくれるならそのまま好きだったってことなんだろうけど。

 

「人の思いってはかりしれないでしょう?」でしたっけ。

「人の気持ちって想像しきれないでしょう?」でしたっけ。

たしか由乃さんがボクシングに挑むときにそんなことを言うんですよ。(わたしに記憶力をください)

だからボクシングで打ち合うという方法で心を具現化するって。

具現化するために数珠より重いものをもったことがない由乃さんが並大抵ではないトレーニングを積んだって。

 

ここがめちゃくちゃ好きでした。

 

是政の視界に入っていない自分の心を具現化してみずから視界に入れに行く。

是政の気づきを待つんじゃなく、自分が動いて可視化する。

顔面パンチと金的という痛みとともに。(個人的にはそれでもまだ痛みが足りないと思いました。)

 

 

「わかりあえたらさよならできる」

って、あまりに真実で。

 

わたしは寺山修司が引用していた井伏鱒二訳の「サヨナラだけが人生だ」を背中に彫って生きているつもりの人間なので、このひとことを書いた福原さんに痺れました。

 

さよならって一方通行じゃないコミュニケーションで、さよならできるためには人は誰かと出会って世界を共有する必要がある。

ひとりぼっちでは、さよならすることさえ出来ないですから。

 

でも

「是政さんの[みんな]の中に私は入っていますか?」

と尋ねて返答につまった是政に

「沈黙が一番残酷なときもある」

由乃さんが突きつけた時、やすだくんの、というか是政の指は、関節に思いっきり力が入ってピッキピキに突っ張ってたんですよ。

 

最初は由乃への申し訳なさに気づいた感情表現なのかなと思ってたんですが、そうじゃないかもしれないですね。

あれは「みんなのため」という耳当たりの良い言葉が剝ぎとられて、自分の中に在る[政子と俺]に覚醒する瞬間なのかもしれないなと今なら思うのです。

 

由乃さんのさよならはやっぱり一方通行ではなくて、そうやって是政を変えていくんです。

 

 

 

そういう意味では権力者の業を一身に背負い

「ひとりでは到底ひきうけられない責任をひとりで引き受けるのが権力者」(みたいなセリフありましたよね?記憶力切望)と哀切を絞り出すように訴えかけた野田中ですら、助さん格さんに支えられてひとりじゃなかったのはなぐさめられるところでした。

 

ところで野田中演じる佐藤B作さん、ほんとうに素晴らしかったですよね?!!ねっ?!!ねっっ?!!!(強い同意をもとめるまなざし)

わたしは野田中がでてくるシーンが楽しくて仕方がなかった。

歌舞伎でいうところの見栄を切り、本物の蕎麦を舞台上ですする野田中。

 

冒頭、是政と政子といっしょに川で溺れたシーンで

「素質がある」「見守ろう」と助さん格さんと立ち去ったときに漂わせていた完全に善の大物が出す圧倒的な威光。

その実「勧善懲悪」どころか芯の通った「勧悪懲善」に誇りすら滲ませる。

底根に「(どん詰まりの住人は)生きる力で負けている」と云わしめる生命力。

 

B作さんの、時にコミカルで時に痛快な節まわしが楽しくて楽しくて、野田中を憎めなかった。むしろ引きこまれた。

役としてもご本人も大物だったなぁと思いかえすわけです。

 

 

 

 

…と、ここまでは書けているんだけどまだ続きがあって。

でも今日福原さんのこの

 

 

 

 

ツイートを見て、とにかく書けているところまでは公開しようという気になりました。

だいぶ、経ったんだな。

まとまったらまた続けます。

 

んじゃまたね