『9』について書いてみた。
やすだくんのソロ曲『9』。*1
呼吸音からはじまるその曲に初めて触れた時、あまりのパンチラインに安田章大はここまでやるのか、これがわたしの推しかと天を仰いでそのまま比喩じゃなく床に倒れ込んだ。
なにしろファンになってから初めてのリアルタイムでのソロ曲リリースで、ドキドキもワクワクも最高潮に達していたところに浴びた『9』は曲もMVもあまりに良くて、ただただ好き~~~~~~~~!!の感情がとめどなく溢れるばかりで、最初は歌詞の中身を深く考えることなんてできなかった。
でもある時を境にこれにはやすだくん自身のストーリーが潜んでいるんじゃないかと思い始めて、いったんそう思いだしたらもうそうにしか読めなくなって、なんだかとんでもないものを引き当てちゃったような気持になったんですよね。
それでブログを書こうとしてたんだけど、4月9日にボク。がアップされてそれを読んだら落ち込んだというか、久しぶりに自己嫌悪に陥った。
興奮して舞い上がってその勢いのままブログを書こうとしている自分があまりに短絡的で、思いやりや心くばりに欠けているじゃないかととても残念な気持ちになったんです。
以前は「やすだくんの経験をエンタメとして消費してしまうんじゃないか」と切実に思いを巡らせていたのに、
その気持ちを失くしたわけではないと思いたいけれど、彼のパフォーマンスや作品にふれるたびその完成度の高さと熱量に押されて「大丈夫かな」という心配の霧はかき消えて、いつのまにか「きっと大丈夫」にすり替わっていたんだとハッとした。
表舞台で「きっと大丈夫」と思わせられるのは、その裏側にやすだくんの人知れぬ努力や葛藤があってのことで。
いつも前向きな言葉でまわりにいる人を太陽みたいに暖めることのできるやすだくんだけど、その足もとには当たり前に地面があって重力があって影が落ちていて、その影をじっとみつめる瞬間もあるんだと感じた。
そして「Happy Birthday 0歳」が語っている4月9日という日の重み。
0歳ってどういう意味なんかな。
この日からまた生まれ変わった新しい人生ということなんかな。
あれから4年経つから4才になるというわけではなく、毎年この日にリセットされるんだろうか。
やすだくんのソロ曲『9』。
9。
その「9」って2月9日と4月9日の『9』ですか。
わたしは気になった曲を理解したいときはまず歌詞を読みたいタイプで、歌詞カードを眺めながらニヤついたり才能に嫉妬してイィーーーーーーッ!!っとなったりするのが大好物なんだけど、『9』の歌詞を初めて読んだ時はにわかに意味をとらえきれない言葉の連続に、一読で「わぁ…やすだくんワールドだ!」と逆にちょっと冷静にすらなった。
というのもやすだくんの作詞作曲エピソードを漁っていたころ『JAM LADY』には裏に誰にも言っていないメッセージがあり、元々のタイトルは『ラブレター』だったと知って、そんなに甘い歌詞だったっけ?と読み返したら想像の斜め上をいく隠語のオンパレードにラブレター要素どこ行ったん…と白目をむいたり、自然に湧いてきた曲は発表する気はなくグループに必要なジャンルの曲を作っている(超意訳)と語っているインタビューを読んで、狙いどおりに曲を作れる才能はエグすぎるけど日の目をみない未発表曲聴きたすぎるじゃん…と涙をのんだ経験があったから。
シンガーソングライターの書く曲はある意味その人自身というか、過去の恋愛とか経験、その人自身のその時の感情を投影したものという世界に馴染んできたこともあって、こんな風にバッサリと歌詞はあくまでもフィクションで自分の感情とはまったく別物と割り切られていることが新鮮で珍しく思えたのだけれど、そうかアイドルという性質上歌詞から意図したもの以外を汲みとられるのは困るのかと妙に納得もしたんですよね。
そこからやすだくんの曲については分からないことがデフォで、こちらから見えているものはここまでなら見せてもいいと明確に線引きされた側面だけだと思うようになった気がする。
だから『9』についても歌詞の意味が汲みとれないことは全然気にならなくて、
くり返される韻も多用される隠語もリズミカルな英語の数々もなんかよく解らんけどすごい。
すごいけど意味はわからん。
とにかくやすだくんの世界観が振り切れてる、という感じで受け取っていた。
きっとやすだくんの中ではどの一語にも意味があって、でもそれは聴き手に明かされることはないんだろうなとなんとなく達観にも似た清々しい距離を勝手に感じていたんです。
それでもアルバム発売前の雑誌祭りではソロ曲について答えてくれていて、
曲自体は3、4年前にできていたこと、
歌詞には多面性をもつすべての自分を肯定してほしいという思いをこめてあることなどを教えてくれていたり、*2
タイトルについても、アルファベットの9番目が「私」をあらわす「I」であることや、新しい世界に移動する意味をもつ数字であることなどいろいろと語ってくれていた。*3
そうか、その思いを安田章大というフィルターに通すとこういう形で表現されるのかとその時は感動した。
一読したら謎な歌詞で、ちょっと深読みしたらほぼSEX描写で、でもそれだけでは読み切れない不思議なイメージをかき立てる言葉たち。
それらをマルっと安田章大に詰めこんだら『9』という音楽が鳴り出すんか。
でもこれってそれだけの意味の曲なんだろうか?
もしそういうメッセージテーマが先にあったらもっと意味のとりやすい歌詞にならん?とどこかで感じていることにその時は気づかなかった。
あまりの曲の良さ、MVの良さに全感受性が奪われていて、圧倒的な世界観にのまれてしまっていた。
作りこまれた音の多彩さに翻弄されるよろこび、MVに没入する恍惚にひたっているうちに 8BEAT ツアーは幕をあけ、いつもより早い初雪が降り、世の中は師走に突入していった。
そうこうしているうちにツアーは回を重ね、年が明けて∞TVのソロコメンタリー*4では
「基本的に人というのはいろんな考え方を持っていて~(中略)~いろんな人格が身体のなかにあるのかなと僕は個人的に思っていて。なので今回のソロ曲の『9』というのは4人以上のキャラクターがきっと人の中には存在するであろうというテーマのもと書かれたりしています。どの自分もちゃんと肯定してあげてほしいなという思いもこめて曲をつくりました」
と『9』のソリッドな世界観とは真逆なポワポワな口調でやすだくん本人が「A world of four or more」の意味を示していた。
なるほど~曖昧なままに受けとめていた歌詞はそういう意味ですかどれどれ…
「席巻しようか A world of four or more
透明な身体で」
うん、解らん。
元気いっぱいわからない。
「A world of four or more」が「4人以上のキャラクターが存在するインナーワールド」という意味だとして、「席巻」する「透明な身体」の人格とはなんなんだろう?
ここからどういう回路を経由したら「どの自分も肯定する」にたどりつくの?
この2行だけでも永遠にわからなかった。
でも同時に「各々みなさんが歌詞を聴いて感じてもらうことが僕の一番の勧め」と言ってくれてもいたし、印象的なライティングを浴びて白と黒が交差するやすだくんはゾクゾクするほど美しいし、意味の在り処など探さずにそのまま受け取っている方がいいのかもしれない。
…本当にやすだくんて謎だなぁCome fly with me? いえすおふこーすですよそりゃ…
その時もそこで思考は止まっていた。
そしてそのまま過ごしていたんです。
それがある日突然反転した。
もうそうしか読めなくなった。
3月10日にTwitterに書いているから今思えばそれは奇しくも3月9日だったんだけど、イヤホンで『9』を聴いたら韻がめちゃくちゃ気になって、あらためてこいつぁエグいってんでおもむろに歌詞を紙に書きうつして韻ふんでる箇所に印をつけていったんですよね。
緑色のペンをつかってたので紙がどんどん緑色に侵食されていくのを、えぇぇ…こんなに?と思いながら手を進めた。
予想していたよりもずっと多く韻がふまれていたことに新鮮に恐れ入った。
そして歌詞を書きうつしたことで改めて気になったのが言葉の選択だった。
「合い」を「愛」「I」に換えていたり、「Lips」の「搦め」と「絡み纏い」の「搦」「絡」の使い分け、最初「peek-a-boo」の誤表記かとおもった「peak a Boo」への書き変え。
ボク。を読んでいてもやすだくんの語感は独特で、ない言葉を作っていたり言葉と言葉を混ぜて別のニュアンスを生みだしていたり、絵具みたいに言葉を自由に扱って文章も彼自身をあらわすアートにしてるんだなと常々感じていて、この歌詞も遊んでいるだけなのか意味が込められているのか謎でしかないんだけど、これだけ仕掛けを散らばしているならそこにはなにかしらの意味があると思っても間違いじゃないんじゃないかとだんだん思えてきた。
木を隠すなら森の中、言葉の意味をかくすなら詩の中、という具合に。
おもえば裏に誰にも言っていないメッセージがあるという『JAM LADY』にも隠語がスパンコールみたいにちりばめられていたし。
こちらファンタジー生まれミステリー育ちのおたくなもんで突拍子もない設定には驚かないし、伏線は回収したがるんです。
なにしろやすだくんといえば新幹線で隣り合わせた淑女と意気投合しLINE交換からのご自宅ご招待を快諾するというとんでもないエピソードでおたくをひっくり返らせたアイドルですから。
おたくでも設定にリアリティがなさすぎると却下するような夢シチュエーションを現実で軽々と上回ってくる、それがナチュラルボーンパンク*5やすだくんのやすだくんたる所以だと思っています。
アイドルとは親和性がなさすぎる性的な隠語のダブルミーニングで核心からミスリードを狙っていたとしてもぜんぜん驚かないし、インタビューでは答えなかったさらなる深みに実はゴリッと意味を含ませていたとしても納得でしかないんです。
むしろそのほうが楽曲とソングライターの関係性としては理解しやすい。
それでずっと『9』に沸きながらもどこか引っかかり続けていたこの不思議な歌詞のとっかかりを求めて、今度は自分がなにをスルーしてしまっているのか考えたんですよ。
そしたら冒頭いきなりあったんです。
「君と一直線 左脳部屋へ」
左脳部屋。
いわゆる右脳は直感的、左脳は論理的というやつ。
比喩としてそういうイメージを喚起させてるのかと思いきや、歌詞としてはその後むしろ右脳的直感ワードが軒をつらねていてなんか不思議だな、なんでやすだくんはここに左脳をもってきたんだろうと思う箇所。
ここから書くのはわたしの完全なる妄言です。
根拠もなにもあったもんじゃないから書くのが怖い気もする。
動画だったらここでWARNING!!の警告アラート映像入れるとこです。
最初に歌詞を読んだとき冒頭の「左脳部屋」で連想したのは、やすだくんが患った髄膜腫の直径8センチという腫瘍がおさまっていた空間のことでした。
朝日新聞に連載された闘病記【安田章大と色つき眼鏡】初回の見出しに野球ボール大と表現されていた腫瘍。
直径8センチがどんなものかいまいち実感がなくてボールを自分の頭の中にあるとイメージしておでこにあててみて身震いしたそのあまりの大きさ。
左前頭葉にあったその腫瘍を切除したときに生まれた空間。部屋…
※医療のいの字にも触れたことがない一般人のイメージであくまで概念として思い描いています。実際に空間があるとは思っていません。
でもそれだとあまりにパーソナルすぎて、『9』の意味としていた「多面的な自分を肯定する」にはそぐわないと浮かんだそばからその考えは捨てていました。
もしそれがとっかかりだとしたら。
紙に書きうつした歌詞を「やすだくんが経験した病気と手術」の視点で辿りなおしてみることにしました。
言葉はそれこそ多面的で流動的なものだから、そうやって眺めるともうわたしにはそうにしか読めないんです。
「後戻りできない」
「止まるべきじゃない」
「拒否する権利ない」
「生ける選択しかない」
生ける選択しかない………………
「Take it easy」
「身委ねるだけ」
「Don't worry」
「I won't be dead」
そうやって読んでいくと「包み隠さず まだ離さない」は「包み隠さず まだ話さない」の詠み替えで終わるまでメンバーに手術のことを伝えなかったことの隠喩にすら読めてくる。
すごいこじつけ!って自分で思わんこともない。分かってる。
でもひとつの小説を読み解くときの習性として、作家の過去、当時どういう状態だったか、どんな交友関係をもっていたか、過去作でどんなことに言及しているか、作中の登場人物にどんなことを語らせているかを寄せ集めてその作家本人の本質に迫ろうとするのと同じように、今持っている情報で『9』を読もうとするとこの一面が浮かび上がることも嘘ではない気がした。
「ぐったりした幹復活した つっ刺した鬱蒼とした森で」はふつうに読んだらド下ネタじゃないですか。(いやそうとは言いきれないか…でもまぁ、大人なので…)
萎えた男性器が持ち直してからの挿入を連想させるけど、もしかしたら「復活した」「幹」というのは病気から回復した脳機能のことで、鬱蒼とした森は頭のことかもしれない。つっ刺したのはメス(医療器具の方。雌じゃない。こんな場面でややこしいな)かもしれない。
「survive」は文字通り生き抜く
「Relive」は文字通り生き返る
「放り捨てた塊たち」は切除した腫瘍
「織り成された轍」は開頭術の傷痕
「ナンバリング」はカルテ
………
最初歌詞の中にやすだくんの手術のストーリーが埋め込まれているんじゃないかと思いついて、こうやって言葉の意味を拾っていったとき、
そしてそこからタイトルの『9』が2月9日あるいは4月9日の「9」じゃないかと思い至ったとき、
たとえ限界おたくのキッツイ思い込みだと判っててもちょっと震えましたよね、実際。
あらためてインタビューのタイトルについて書かれてあるところを読み返すと、最初から「9」ありきで、そのなかに意味を求めようといろいろと調べたようにとれる話しぶりにも思える。
МVでは白いやすだくんと黒いやすだくんがアメリカシロヅルとカラスになぞらえてあって、白い鳥をなぜアメリカシロヅルにしたのか?という疑問にはこんな答えがあって
「黒」がオーソドックスにカラスを選んでるのに対して「白」は数ある種類のなかからアメリカシロヅルを選んだのなんでなんだろうってメイキングを見るたびずっと不思議に思ってきたんだけど、今日やっとアメリカシロヅルが9月11日の誕生鳥だということに行き着いてやすだくーーーん!となったので寝る
— sawa子 (@yasusunonuma) 2022年3月29日
これだけでもやすだくんが広義の意味とは別にパーソナルな思い入れをこの曲に忍ばせていることが推測できる。
誕生月でもある「9」という数字は、彼にとって符号でありシグネチャーであり象徴なのかもしれない。
とは言え、愛で撫で奏で~からはじまるサビはこの視点から読んでも明確な意味はとれなくて。
意味がとれないからこそやすだくんのパーソナルな心情体験を落とし込んだ部分かもしれないとも思う。
「愛で撫で奏で」る「Loop Sound」は心臓の音だろうくらいは思いつくけど、
「席巻しようか A world of four or more
透明な身体で」
のところはやっぱり分からないし、
「透明な身体」との対比で「不透明な最中」が出てくるけど、ここは触れることのできない領域かもしれんと思っている。
あるいは「透明な身体」はMRIで撮影された内部まで明け透けな状態で、外皮という社会的なものをとっぱらった存在のことかもしれないとも思うけど、この解釈はひとりよがりすぎるという自重はしてる。
もちろんこうやって取り出した言葉たちの間に、違うイメージの言葉もたくさん並んでいる。
『9』の最初の手触りを印象づけている誘惑、性的な含意のある言葉たち。
「騙し」
「甘い魔界の音色」
「脱がす」
「ジラす」
「しとどになった」
「アツイ花芯」
「求め」
「弄り慰め」
「蕩け合う」
「煩悩の性」
「本能の罠」
「Lips 搦めた」
「ともに息殺し」
「イキ通し」
「XXXX TABOO」
「Deep Dive」
「細部を愛撫」
卑猥さもここまで重ねるとむしろコミカルに思えてくる量だし、直球のエロがやすだくんらしくもある。
これだけエロでたたみかけても全く濁らない純粋な存在感、いったいどうなってるんだ。
これは以前から感じていることなんだけど、やすだくんが用いるエロティシズムは卑猥ではあるけれど淫靡ではなくて、つねにあっけらかんとしているんですよ。
性的な行為に背徳感がないというか。
人間も自然の一部、動物の一種、繁殖行為は種を全うしようとする根源的な活動、みたいな趣で、『プラネット アース』のノリがある。
この曲の中でもエロをガンガンに押し出しているけれど、かといって『9』自体がそれに侵食されることはなく、むしろ「生の脈動」みたいなものを感じさせる。
「みんなあんまりオープンにしたがらないけど、生きているってこういうことも含むよね~」という壮大な懐の深さが浮き出してくるエロである。
それから、このへんは色や空間を想起させる言葉。
「紫のアネモネ」
「茹だり夢中」
「宇宙で腐り」
「掠り霞み」
「愛たい」
「艶やかMarble」
「真っ逆さまから上昇」
「相乗する暴走」
「同色の抱擁」
「愛いらない」
愛たいとか愛いらないがなんで色や空間のイメージかと聞かれると困るんだけど、愛って200色あんねん…てわたしの中のアンミカさんが言っている。
そしてリアルな肉体が戸惑いや不安に結びつく言葉。
「散々させ」
「かき混ぜ」
「不確か」
「確か」
「まさかの出逢い」
「どうしよう」
「peak a Boo」
「亞 Naive」
「項垂れた」
「カラダ達」(透明な身体の漢字表記に対してここはカタカナ表記)
「葬れ」
「闇夜」
「絡み」
「纏い」
「鳴らす」
「不透明な最中」
なんというか、とても心細そうな言葉たちである。
最後に
「快楽罪悪
抱きしめ秘め
Come fly with me?」
誘惑、性的な含意のある単語を「快楽」とすると、残った言葉には意外にも「罪悪」を想起させる言葉はほとんどない。
むしろ困惑や戸惑い、不安の印象がつよい。
やすだくんにとっての罪悪ってなんなんだろうな。
Come fly with me?と誘うやすだくんは、どこに飛んでいくんだろうか。
ともあれこれで歌詞の中に「手術」「SEX=生」「色・空間」「不安・戸惑い」の4つのカテゴリを勝手に爆誕させたわけで、まだこじつけをゴリ押しするならこれが「A world of four or more 」と言えんこともなくもないかもしれない。(さすがにここは弱気)
ボク。を読んで落ち込んで、いったんは書くのを止めたこのブログをなぜ今のタイミングで書きだしたかというと、8BEATツアーのドキュメントを見たからなんです。
本当にたくさんの人の膨大な才能と努力と愛情と情熱を注いでつくられた作品なんだなと改めておもった。
そしてそれを受け取る相手として、ファンのことをしっかり信頼してくれているんだなとも感じた。
だったらひとりの受け手として、わたしが感じたことはたとえ突拍子がなく的外れだとしても、ちゃんと時間を費やして整理してまとめようと思えた。
そうすることがむしろ作品とのフェアな向き合い方だと思った。
結局どれだけ歌詞を細分化しても、こういう解釈ができますよというだけでやっぱり謎は謎のままですね。
ただ、МVを観ても曲を聴いても悲壮な感じや闇に引っ張られる感じはみじんもなくて、それこそ生、生きることへのベクトルしか感じない。
淫らでも病気で弱ってもそこには生身の人間をそのままに受け止める肯定感しかなくて、つまりこれって人間讃歌なんだと思う。
人間をマルっと受け止めて、抱きしめて、時には秘めて生きていく音楽。
これって…
いろいろ寄り道したけど、結局はやすだくんがインタビューで答えていたところに行き着いてしまった。
これゴッホの舞台の時もやったやつや。
さんざん本読み漁って、最終的にようやく自分なりの答えにたどりついたと思ったらパンフレットのやすだくんの言葉の中にすでにそれがあったってやつ。
やすだくんは最初から惜しみなく与えてくれてるのよ。
なんてこった。
延々と書いてきてまた振り出しに戻っちゃった。
やすだくん…好き………